![]()
2009.6.1
2004年カンボジア旅行記
5年前にカンボジアを訪れたときに書いた旅行記です。稚拙な文章ですが、
カンボジアへの思い、SavongSchoolをつくるきっかけなどが書かれています。
そして、再びカンボジアへ
白い雲を突き抜けて、その緑に覆われた大地が眼下に広がったとき、本当にまた来てしまったんだな、と急激に興奮していく自分がいた。
2004年9月、東南アジアのカンボジアというちいさな国に出掛けた。海外に1人で行くのは初めてだった。アンコールワットがあるという以外、何の知識も持っていなかった僕にとって、そこはまさに未知の世界。地雷やエイズ、強盗などのネガティブな情報にやや怯えながらカンボジア第2の都市、シェムリアップに向かったことを覚えている。
カンボジアは興奮するものに満ち溢れた、そして笑顔の国だった。
アンコールワットという世界遺産を一目見ようと集まる観光客の影響で、猛スピードで近代化していくシェムリアップの街。一方で、ほんの少し郊外に出れば20年前と変わらず高床式の家に住み、農業を営み、自然とともに生きる人々がいる。それらが微妙に絡み合っているためなのか、カンボジアは本当にエキサイティングで、僕の好奇心を一瞬たりとも途切れさせることはなかった。
僕が今回、わずか3ヶ月のブランクでカンボジアに再び渡ろうと決心したのは、9月の旅の中でのある偶然の出会いが始まりだった。ポル・ポト時代の悲劇を静かに後世に伝えようとする寺院、通称“キリング・フィールド。この寺院では厳しい戒律を守り修行に励む、オレンジ色の袈裟に身を包んだ僧侶たちと、そして多くの孤児たちが暮らしている。
観光客があまり立ち寄らないその場所で突然話しかけてきた青年の名はサヴォング。彼は僕を、少し離れた場所に連れて行った。そこは彼が造った、寺小屋のような学校だった。ほんの少しの机と椅子が並ぶその「教室」で彼と数人の仲間たちは、英語やタイ語、日本語などの外国語を子どもたちに教えていた。
「カンボジアにはたくさんの貧しい、親を持たない子どもがいるんだ」
とサヴォングは悲しそうな顔で話した。僕はまっすぐな思いで自分の国のことを語る、僕と同じ22歳の彼にすっかり感心してしまった。
日本に帰国してからも連絡をとりつづけて、彼の学校に関する様々なことを知ることができた。現在80人以上もの生徒を抱えていること、筆記用具や教科書が不足していること、ダンカンというニュージーランド人が継続的にお金や物資を支援してくれているということ。
カンボジアに関するたくさんの本を読んだ。1970年代にポル・ポト政権が行った恐怖政治の数々や、子どもと教育の現状、1993年に明石康さんを代表とするUNTACが行ったPKO活動など。カンボジアという国のことを、何も知らなかった。知れば知るほど、自分が無知だったということを思い知らされた。
もっと知りたい、と思った。カンボジアの現状も、サヴォングの学校も、事実が淡々と書かれた文章からではなく、自分の五感を使ってダイレクトに。
決意したのは出発の2週間前。とりあえず猛ダッシュで日本での用事をなんとか済ませ、慌しくも12月13日朝、リュックを背に熱帯の地へと向かった。
飛行機の中での出会い
関空から出発したベトナム航空機はホーチミン空港でひと休みしてからカンボジアのシェムリアップ空港へと向かう。カンボジアに直接日本から行くルートは、まだないためだ。
出発前かなり慌しかったため、この空港での2時間の待ち時間にカンボジアの言葉であるクメール語の予習。クメール語の文法は英語と似ていて、それほど難しくはない。しかし、発音はやたらと複雑で、なんと母音が28音節もある。ちょっとした発音の違いで全く違う意味になるらしいのだが、アイウエオの5音節で生きてきた日本人の僕には到底使いこなせそうにない。
ホーチミンからシェムリアップへと向かう機内では、隣が日本人の老夫婦だった。ツアー客らしく、2人してもう帽子をかぶって、到着をいまかいまかと待っているようだった。何だかほほえましい光景だった。この辺りが態度も体もむやみにデカイ欧米人の老夫婦とは違う。本当に彼らときたら、観光地だろうが神聖な寺院だろうが、我が物顔でのしのしと歩き回り、パシャパシャと写真を撮りまくるのだからたまらない。
離陸してしばらくすると、老夫婦は入国審査に必要な用紙の書き方が分からない、とさかんに言い合っている。見兼ねて助け舟を出した。ご主人は一字一句間違わないように、狭い飛行機の座席で必死にローマ字と格闘していた。
「ほんとうにこの人はちょっとでも間違っているのがいやでねえ」
言葉少なで紳士的けど、少し頑固なご主人と、おしゃべりで、ご主人の世話を楽しそうにしている奥さんを見て、いい夫婦に出会ったなと思った。ちなみにこの夫婦とは偶然にも帰国の飛行機も同じで、すっかり仲良くなってしまった。
ベトナムからカンボジアまでは約1時間。あっという間に、離陸準備に入ったとの早口のアナウンスが流れた。
穏やかな夕暮れ
ロクに舗装もされていないシェムリアップ空港に「どすん」と音をたててベトナム航空機が降り立ったのは、カンボジア時間で午後5時半。日本との時差は2時間だ。おそろしくマイペースで「人生なんておもしろくもなんともないさ」とでも言いたそうな顔をしたカンボジア人の空港職員を相手に入国手続きやビザ取得をしていると、残念ながら陽は沈んでしまっていた。
アンコールワット目当てにシェムリアップを訪れる多くの人にとって、もちろん僕にとっても、夕陽を見ることは最大のイベントのひとつだ。まだまだ発展途上で高い建物が見られないシェムリアップの町では、夕陽が沈む様子がハッキリと見ることができる。周囲を真っ赤に染めつつ沈んでいく夕陽は言葉で形容し難いものがある。
そして、毎日目にしているであろうカンボジアに住む人々も、夕陽が沈むときは仕事の手をしばし止め、穏やかな顔でそのオレンジの光を見つめる。街に住み、文明に触れている彼らにとって、自然はまだまだ身近な存在なのだ。
ボロムとの再会
空港の外に出ると、予想通り何人か僕のもとに駆け寄ってきた。自分のバイクに乗らないか、というわけだ。カンボジアでは移動手段として、もっぱらSUZUKIやHONDAのバイクが使われている。これらは“モトバイ”と呼ばれる。2人乗りはもちろん、3人でも4人でもいたって普通だ。
ふと、僕の名前を呼ぶ声がする。振り向くと懐かしい顔がそこにあった。
僕を空港まで迎えに来てくれたボロム、という名のモトバイ・タクシードライバーは前回の旅でずっと一緒に行動してくれた、日本語教師を志す青年。勉強のかたわらで観光客相手に働いている。前もって彼に到着時刻をメールし、迎えにきてもらったというわけだ。メールひとつで海を越えて国境を越えて連絡しあえるなんて、本当に便利な世の中だなあ。
カンボジアは10月から3月までの間は乾季で、全く雨が降らない。特に僕が訪れた12月は1年の中でも最も過ごしやすい時期らしい。確かに、熱帯気候とはいえ、陽が沈むと若干肌寒い。パーカーを羽織り、ボロムの運転するバイクの後ろにまたがって、3ヶ月ぶりのシェムリアップの街へと向かった。
出発前の計画通り、ボロムおすすめのゲストハウスに泊まることにした。キングサイズのベッドにテレビ、シャワー、トイレ、ファン付きで5ドルは、ありえないくらいに物価の安いカンボジアにあってもなお安く、僕は満足だった。しかしこのゲストハウス、主要幹線道路から少し奥にあるため、宿泊客は少ないようだった。前回の旅で泊まった宿は日本人であふれかえっていたが、ここでは日本人は僕だけ。もっとも、12月の師走の時期にカンボジアを訪れる日本人もそうたくさんはいないだろうけど。
このゲストハウスを気に入った最大の理由は、何よりも市場、それも観光客相手でなく、シェムリアップの市民のための地元の市場がすぐ近くにあったことだ。まさしくその市場は、予想通り喧騒と活気に満ち溢れていた。果物や衣類、日用雑貨などが散らばっている。老若男女問わず、たくさんの人々が集まっていた。
にぎやかな市場
ボロムはゲストハウスに荷物を置いて一息ついた僕を晩飯にと、人気だという鍋料理を提案したが、僕は市場に並ぶ屋台で食べることにした。前回訪れたときに何を食べても大丈夫なのか、また危険なのか、を身をもって経験していたので、そこで食べることは大丈夫だと思えたからだ。と、いうよりも、地元の人々に混じって、彼らと同じものを食べることが面白そうだと思ったのだ。
メニューというものは存在せず、自分で複数の鍋から食べたいものが入っている鍋を選ぶ。すると待ち構えていたおばちゃんが皿に盛ってくれる、というシステムだ。さらにおばちゃんは、釜から大量のゴハンをドスドス皿に盛る。カンボジアは本当に米を良く食べる国だ。都市でも地方でも、人々は米を沢山食べる。
味は良かった。肉にしても魚にしても、味付けは日本とあまり変わらない。
のんきに食べていると、背後に人影が。なんだろうと思って振り向くと・・・そこには10歳くらいの裸足の少年が立っていた。
「またか・・・」と急速に気分が暗くなった。つまり彼は、僕に食べ物、お金をくれとせがんでいるのだった。
シェムリアップの街は、アンコールワット目当ての観光客のおかげで、ここ数年目ざましい発展を続けている。一方で、この少年のようなストリート・チルドレンの数は減ることがない。彼らの多くは親を持たず、家を持たない。技術や知識をもたないため、働く仕事すら無いのだ。夜になるとどこからともなく人の集まる場所へと出てきて、こうやって食べ物やお金をせがむ。そんな姿をよく見かけたし、実際に何度もせがまれた。
僕はまた、悩んでしまうことになる。
果たして、彼らに食べ物やお金を渡すことは長い目で見たときに、彼らのためになるのだろうか。一度もらうと、彼らはますます自分の力で働こうとする気力が失われるのではないか。恵むことは間違った行為ではないのか。
そんな「言い訳」を探しつつ、僕はキャンディーをいくつか少年の手に握らせただけだった。でも結局のところ僕はそのとき、その1人の少年にあげると他の子どもも寄ってきて、きりがなくなることを恐れたのだと思う。そんな僕の一部始終を見て、ボロムはどう思ったのだろうか。少し気になった。
ボロムには先に帰ってもらい、僕は夜の市場を散歩することにした。
夜9時だというのに道沿いの店には人が溢れている。すぐ近くでは騒音としか思えない大音量をBGMに、バイクのせりが行われている。食べたばかりだというのに、ここで食っていけよとばかりに空いた椅子を示すオヤジ。様々な果物を所狭しと並べた店番をしている小さな少女が、元気な声をはりあげて僕を呼び止める。賑やかさが心地よかった。
ゲストハウスの入り口でボロムが僕の帰りを待っていてくれた。道に迷っていないか心配してくれていたらしい。彼は僕を単なる客としてではなく、ひとりの友人として気遣ってくれる。それがとても嬉しかった。
そんな彼に、僕は日本から持参した辞書を渡した。外国人用のその英和辞書は、勉強熱心なボロムへのわずかながらの感謝の気持ちだった。
部屋に戻ってテレビをつけると、少年のキックボクサーがムエタイの試合をしていた。大人顔負けのパンチやキックを繰り出す彼らもまた貧しく、稼ぐために、そして生きるために闘う。市場で会った物乞いの少年の姿と重ねながら、僕は1日目の眠りについた。
朝焼けを見に
朝4時に目覚めた。
全く僕は、旅先では本当に目覚めがいい。そして目覚ましも全く必要ない。子どもの頃、遠足の朝は全く寝坊しなかったのと同じようなものだろう。
今日の午前のテーマは「再会」。サヴォングのもとへ行くのは午後にして、9月の旅で出会った子どもたちに再会し、さらに前回撮った写真を渡そうという計画なのだ。渡したときの子どもたちの驚きを想像するだけで楽しくなってくる。
まずはスラ・スランだ。
アンコールワットはその大きさ、存在感、美しさともに訪れる者を圧倒する。だが実は、アンコールワットは周りに点在する遺跡のひとつでしかなく、シェムリアップには多くの遺跡が存在するのだ。これらの遺跡は19世紀に、当時植民地化を行っていたフランスの調査隊が発見するまでは、完全にジャングルの奥深くに眠っていたという。
そしてそのひとつがスラ・スランというわけだ。大きな貯水池と、それを守護するかのように立つ像から成る遺跡で、この場所では朝日が美しく見えるポイントで有名なため、観光客がたくさん集まる。
朝8時、ボロムに迎えにゲストハウスに来てもらい、スラ・スランに向かう。星が夜空一面に広がっている。明かりがほとんどないため、星のわずかな光を頼りに進む。
15分ほどで到着すると、既に数人の姿があった。とてつもなく寒い。熱帯の国といえど、この時期は朝晩15度以下まで下がる。
誰か地元の人が焚き火を始めた。ちょっと混ぜてもらい、暖をとりながら朝日を待つ。こんなに寒い朝早くでも、子どもは元気に走り回っている。焚き火の火を裸足で踏んだり蹴ったり。日本のPTAのおばさん連中が見たら発狂したかのようにカナキリ声を上げることだろう。
残念ながら、この日は雲に覆われて日の出を満足に見ることができなかった。
しかし、この場所では子どもたちと再会することができた。
前回の旅で、僕はこの場所で子どもたちの笑顔に負け、箸やらTシャツやらポストカードやら、こまごまとしたものをたくさん買わされた。どの遺跡にもこの手の売り子たちがいて、観光客に土産ものを売りに来る。
前回の旅でスラ・スランには毎日のように行っていたため、そこの子どもたちとは特に仲良くなった。彼らは学校に行っていない(行けない)がしかし、英語はもちろん、日本語もかなり達者だ。さっき日本語で僕と会話していた10歳くらいの女の子が、他の観光客に中国語で話しかけていたときはさすがに驚いてしまった。本当にたくましい。
子どもたちは僕のことを覚えていてくれた。「戻ってくるの早いねえ!」よっぽどこの日本人は暇なヤツなんだな、と思ったのかもしれない。
写真を渡すと、自分が写っていると騒ぐ子、写っていないと涙ながらに落ち込む子など様々な反応。観光客に売るためのポストカードはたくさん持っているけれど、自分自身の写真となるとほとんどないのだ。写真ひとつでこんなに大騒ぎになるとは思わなかった。それにしても喜んでもらえて良かった。
モノの豊かさと、子どもの純真さは、反比例するのかもしれない。
もちろん、日本の子どもだって十分に純真だけど。
ここの子どもたちは本当にいい表情をしている。おみやげに、と持ってきた折り紙をあげると、とたんに奪い合いの戦場になってしまった。
スラ・スランには結局3時間も居座っていた。
世界遺産に登る
次に向かったのはアンコールワット。今回は観光が目的でないとはいえ、カンボジアに来た以上、この遺跡はもう一度見ておきたかった。それほど、この巨大な建造物には人を惹きつけるオーラがある。
アンコールは「都市」、ワットは「寺」の意味を持つ。1113年から30年以上かけてつくられた、ヒンドゥー教の寺院であり、現在でもカンボジアの人々の誇りとして、圧倒的な存在感を誇っている。カンボジアの国旗にもこの巨大寺院が描かれているほどなのだ。
しかしこの遺跡は砂岩で造られているため、劣化が激しい。水分が入り込みやすく、植物が育ってしまう。既に植物の力により破壊されてしまった遺跡も多い。そのため、近年海外のNGOやボランティア団体を中心に、その雄大な姿を後世に残すための修復・維持作業が行われている。最近では彼らから技術を学んだカンボジアの人々も積極的に活動を行っている。
カンボジアの遺跡の特徴を表すのに、「ありのまま」ほどふさわしい言葉はないと思う。触ったり写真を撮るのはもちろん、自由に登ったりもオッケーだ。日本でよく見かける「ここに入ってはいけません」の看板もない。
外国人観光客は、遺跡を訪れるためにはチケットが必要なのだが、カンボジアの人々は無料。子どもたちは遺跡でかくれんぼや鬼ごっこをしているくらいだから、人々と遺跡との「距離の近さ」を感じてしまう。
急な階段を登り、上層部へ。手すりがない上に足元が不安定なために一気に登る。下を見ると足がすくみそうだ。だから下りはかなりの恐怖だ。上には何人かのオバチャンがいたが、どうやって降りるのだろう。
アンコールワットより高い建物が周りにないため、眺めがいい。見渡すと無数の木々に覆われた大地が広がっていて、ここがかつてジャングルの中にあったことがうなずける。僕は眺めのいい場所に腰を下ろした。
それにしても静かだ。
聞こえるのは鳥の声と、祈りを唱える僧侶の低い声。日差しがあっという間にぐんぐん強くなり、朝の寒さが嘘のように暖かい。アンコールワットという神秘的で壮大な遺跡の上で、快適かつ贅沢な朝のひとときを過ごした。
ワットの裏へ周ると、2人の女の子が踊りの練習をしていた。それはアプサラという、天使の舞いを再現したと言われる宮廷舞踊で、バックに見えるアンコールワットにピッタリだった。近いうちに人の前で披露したりするのだろうか、指導している女の人が驚くほど鋭い視線をギラリと2人に注いで、ときおり強い口調で指示を送っていた。僕が写真を撮っても振り向きもしない。
アプサラ舞踊といえば、限られた人しか見ることのできない伝統的なものらしく、わざわざ裏に周って見ることができてラッキーだった。
楽園へ
シェムリアップの街の南西には、巨大な湖、トンレサップ湖がある。この湖、乾季の水の少ない時期は琵琶湖の約4倍の面積だが、雨季になると何とその6倍の面積にまでなるという。つまり琵琶湖の24倍。200種類以上の魚が生息し、面積あたりの漁獲量が世界一のトンレサップ湖は、さながらカンボジアの食糧貯蔵庫のようなものなのだ。
プノン・クロムはその湖を見渡せる、小山の名称だ。山というよりは高台だけど、初めて登ったときはその眺めの素晴らしさに息を飲んだ。どう見ても、目の前に広がる景色が湖だとは信じられなかった。
また、頂上には小さな遺跡があり、アンコールワットと比べると規模が全然違うものの、何だかしみじみと雰囲気のいいたたずまいだった。
街から離れているため、観光客はそれほど多くなく、ふもとの村では貧しくも静かでのんびりとした生活が営まれている。
そんなプノン・クロムで出会った5歳の女の子。
透き通るような瞳と、15円ほどの価値しかないボロボロのカンボジア紙幣を右手に握り締めた姿が印象的だった。前回の旅で、標高200mほどのプノン・クロムを登っていると、3つほど年上のいとこのお姉ちゃんと一緒に歩いているこの女の子に出くわした。2人は毎日のように山に登って遊んでいるのだという。
2人はもちろん英語や日本語を話せないし、僕にしてもクメール語はほとんど分からない。結局顔を突き合わせてニコニコしていただけだった。でも不思議なことに、僕はこの子たちとたくさんの言葉を交わした気がする。
広大なトンレサップ湖をバックに、裸足で楽しそうに走り回る姉妹のような2人にカメラを向けながら、こういうところが楽園なのかもしれないな、と思った。
わずか3ヶ月ぶりだけれど、彼女がどう変わっているか、楽しみだった。
一方で、出会えるのかどうか心配だった。もちろん事前に連絡できない上に住んでいる場所も分からない。でも何故か、会えるという確信に近いものがあった。
女の子の家はプノン・クロムのふもとにあり、そして本当に運がいいことに出会うことができた。母親と、小さな弟と朝の穏やかな時間を過ごしていた女の子は、どうやら僕のことを覚えてくれていたらしい。突然の来訪にたじろぎながらも、驚きのまじった笑顔をのぞかせた。
髪の毛がのびて、少しお姉ちゃんになったように見える。それでもまだ5歳ということで、お母さんに甘え放題だ。カメラを向けると恥ずかしそうに下を向いてしまう癖も変わっていない。
母親は、「この子は25歳になったら医者になるんですよ」と嬉しそうに僕に話しかけた。本人は母の思いを知ってか知らずか、うわの空でペットの子犬をわしづかみにして遊んでいる。
前回撮った写真を渡すと、それまでのやや緊張した顔が一気に輝いた。その瞬間をカメラに収められなかったことが本当に残念だけど、喜んでくれてよかった。よっぽど自分の写った写真が嬉しかったようで、結局お母さんが取り上げるまでずっと写真を握りしめてほんの少し前の自分の姿をまじまじと見つめていた。
ハンモックで眠っていた小さな弟もその騒ぎでムクリと起き出して、
「何かヘンな奴が来たなあ」
とでも言いたげに、いつまでも僕の顔を見つめていた。
湖畔の簡素な小屋に住み、着るものもお金もあまりない、貧しい一家。テレビも本もバイクもないけれど、この家族の笑顔を見て僕は「豊かだな」と思った。
次に会えるのはいつになるか分からないけど、彼女にはこの暖かい家族のもとで元気に育って欲しい。「また来るよ」と心の中でつぶやいて、女の子の家をあとにした。
再び市場へ
シェムリアップの昼の街は、喧騒の中にある。町中をバイクや車が縦横無尽に走り回る。信号は街に2つ。誰も守ってなんかいない。ひっきりなしにクラクションの音が響きわたる。
そういえば朝からロクにものを食べていない。昨日訪れた、泊まっているゲストハウス近くの市場で何か空腹を満たすものを探すことにした。
市場には本当に人が多い。
肉・魚・野菜・果物・日用雑貨・テレビ・たんす・時計・ノート・ガラクタと、挙げればきりがないくらいにたくさんのものが売られている。売買している人々も、90年は軽く生きていそうな元気一杯のお年寄りから、10歳くらいの恥ずかしがり屋の少女まで様々だ。威勢のいい声が響き渡る。
食堂のようなところで水牛の肉の炒め物と、魚の煮付けをおかずに、またまた大量のご飯を食べる。昨日と違って今日は1人で。英語もロクに通じないような店で片言のカンボジア語で会話し、他の地元の人と同じように食事できたことで、少しまたカンボジアのムキダシの姿に近づけたようで、何だかうれしかった。これだけ食べて100円なのだから、何だか申し訳ないくらいだ。
ドラゴンフルーツ、という日本では沖縄でしか食べることができないという南国の果物をわずか50円で買って、それを口に放り込みながら市場を歩く。
この市場では他の場所と違い、外国人ということで周りから好奇の目を向けられることがあまりなかった。僕は地元の人々に混じって市場での散歩を楽しんだ。
別れと再会
サヴォングの住むキリング・フィールドへと向かう。
今日から彼の家に泊めてもらうので、ボロムとは早くもお別れ。もっと時間があれば、彼ともいろいろな話ができたんだけど。
“Good Luck!“
必ずまた会うことを約束しつつ、固い握手を交わした。
キリング・フィールドの入り口ではサヴォングの親友、ソピンが僕の到着を待っていてくれた。彼は日本語を勉強しているとかで、なかなか上手だ。すぐさま、サヴォングの家に連れて行ってくれた。
家ではサヴォングが迎えてくれた。「ひさしぶり!」再会の瞬間は、いつでも嬉しいもの。
早速日本から持ってきた筆記用具を渡した。決して多いとは言えないが、助けにはなるだろう。カンボジアではあまり使わないという鉛筆やコンパスなどの使い方を簡単に教えた。
しばらく話していると、ふと気づいた。前回と学校の様子が少し違う気がする。ちなみに、彼の学校、サヴォング・スクールは彼の家に併設されている。
僕の違和感に気づいたサヴォングが目を輝かせて叫んだ。
「ダンカンのお金で、事務所と壁を作ったんだ!」
なるほど、前回来たときはやたら開放的な印象だったのだが、壁が作られ机と椅子も揃ったためか、わずか3ヶ月で学校としての雰囲気があるような気がする。
小さな小部屋もあり、そこには将来パソコンを置くつもりだという。
「でもパソコンは高くて高くて・・・」
サヴォングはそれでも、陽気な声で話しつづけた。
サヴォングとその家族
サヴォングは現在、子どもたちに英語を教えるかたわら、クメール語を学ぶために自らも学校に通っている。彼が担当する英語の授業は月曜から土曜まで、毎日1時間を2回。夜には学校運営のための作業をしたり、仲間と今後についての打ち合わせをしたりと、結構忙しい毎日のようだ。
彼には兄弟が9人いる。それに父、母、祖母、祖父、叔母。兄弟全員がその家に住んでいるわけではないが、それにしても大家族だ。
彼の家は、かなり裕福だ。シェムリアップの街の他の家と比べても、外壁はレンガで覆われ2階建ての彼の家は立派だ。
彼の父は、現在星占術師として有名らしいが、その前はすぐ近くにある寺院、通称キリング・フィールドの住職をしていたらしい。厳かな、という表現がふさわしい、そんなたたずまいをしている。外国人である僕の滞在を歓迎してくれた。他の家族のみんなもいろいろと声をかけてくれた。もちろんクメール語なので分からないけど、歓迎してくれているのは確かだ。泊めてもらうことなど、心配していたけれど大丈夫。
中でもサヴォングの小さな妹と、その遊び仲間の3人組は異国人の滞在の喜びを体中で示してくれた。3人ともとびきり可愛い上に人なつっこく、僕の後をついてきたりリュックの中をのぞいたりと大騒ぎだった。僕はヒマができると彼らとずっと遊んでいた。
日本語の授業を体験してみる
まもなく、日本語の授業が始まった。日本語は月~土の毎日、3時~4時と7時~8時の2回あり、生徒はいずれかの時間に授業を受ける。教えるのはチーソンナンという青年で、僕の2つ下の21歳。将来の夢は日本語学校をつくること。彼もまた、いい奴だ。
少し前まで日本語学校で学んでいたが、学費が払えず現在は退学している。彼によると、日本語学校の学費はやたらと高いらしく、結局払い続けることのできる裕福な家庭の子どもばっかりが残るらしい。
何かがおかしい。
何のための日本語学校なのだろうか。彼のような、貧しくても夢を持った人に門を開かないでいるようだと、カンボジアは変わらない。
日本語を学びにサヴォング・スクールにやって来る生徒は子どもだけでない。修行中の僧侶がいたり、47歳の主婦のおばちゃんがいたりと随分バラエティに富んでいるのだ。無料なので、いろいろな人が集まってくるのだ。
3時から、ということだけど一向に始まる気配がない。先生も生徒もちゃんといるのに、雑談をしながら時間が過ぎていく。どういうことだろう、とぼんやりしながら眺めていたのだが、つまりこれが「カンボジア気質」というやつらしい。
彼らは細かい時間を気にしない。基本的にのんびりしている。
「郷に入れば郷に従え」日本と同じようにやってたらイライラしてしょうがないのだ。結局、20分ほど経って、授業が始まった。
チーソンナンは若く、彼自身もあまり日本語に長けているわけではないので、授業は遅々として進まないのだが、しかし彼は生徒の心をつかむのが上手かった。片言とはいえ、わずか2ヶ月の学習で会話ができるようになっている生徒たちを見る限りは、彼の教え方は上手くいっているようだ。笑いの絶えないやさしい雰囲気の中で授業が進んでいく。
僕はとりあえず彼らに、基本的な挨拶とその発音を特別講師として教えてみたりした。自分がネイティブだということに気づく。何だか不思議な感じだ。
ちなみに、カンボジアの人々にとって、「つ」の発音はかなり難しいらしく、何度繰り返しても「す」と「つ」をはっきりと区別して発音することができなかった。12月→じゅうにがす いつ→いす といった具合なのだ。
残念なことに僕の名前は彼らが発音すると「すじ」となってしまい、そしてそれは最後まで直ることはなく、少し残念だった。姿を見られるたびに「すじ~!」と呼ばれていた。
僕はこのチーソンナンに、持ってきた英和辞書と「日本語の教え方」というのテキストを渡した。教える材料すらも不足しているのだ。少しでも足しになれば、と思う。
4時過ぎに授業が終わると、サヴォングは僕をツーリングに誘った。彼の好きな郊外に連れていってくれるのだという。
彼がバイクを走らせたのは、舗装など、一切されていない田舎道だ。夕暮れの、淡い赤色に染まった郊外の風景は美しかった。ゆっくり走りながら、僕たちはいろいろな話をした。家族構成から結婚、トイレの使いかたまで、日本とカンボジアの間には異なることがあまりにも多く、話のネタは尽きることがなかった。
少し彼のバイクを運転させてもらった。バックミラーがついていない。無くなったのではなく、もともとないのだ。だから、自分でいちいち振り返ったりして確認しなければならない。
それでも慣れると快適なもので、サヴォングと僕は夕陽に真っ赤に染まっていく郊外を気持ちよく走った。
450ドルと、サヴォングの提案
その日の晩のこと。
部屋で荷物の整理をしていると、サヴォングがやって来た。
「明日の午前、どこか行きたいところはある?」
特にないと答えると、彼はなにやら真剣な顔で切り出した。
シェムリアップの街から少し離れたロリュオス遺跡、その周辺に住む子どもたちは貧しく、学校に行くことができない。自分は将来、彼らのために学校を作りたいと思っている。明日、そこの子どもたちのためにペンやノートをプレゼントしないか、と。
悪くないな、と思った。プレゼントすることももちろんだけど、学校に行けない子どもたちがどんな表情をしているのか、そして地方の現状がどんなものなのかを見てみたかった。
自分の国の「負」の部分を僕に知って欲しい、と願うサヴォングはカンボジアを、そして子どもたちのことを本当に愛している。そして思うだけでなく実際に行動している。同年代のこの青年に、僕は尊敬に近い感動を覚えていた。
「いいよ、行こう」と僕は答えた。
この機会に、僕は日本から持参した450ドルを渡すことにした。カンボジアの公務員の年収が350ドルあまりということを考えると、サヴォングに渡したお金が彼らにとっていかに大金かが分かる。
「これは日本の僕の友達から集めたお金なんだ。みんな、サヴォングの夢を共有しようとしてくれている。約束して欲しい。このお金をカンボジアにいるたくさんの貧しい子どもたちの未来のために使ってほしい」
そして早速、450ドルの使い道の相談会が始まった。英語は母国語でないため、お互い、自分の思いを正しく伝えるのが難しい。辞書を持ち出したり、紙に文章や絵を書いたりとあらゆる手段を使った。
長い時間話し合って決めた結論は、サヴォング・スクールを増設しよう、というものだった。今は1つしかない教室を、もう1つ新たに造ろう、というものだ。教室が増えれば、もっとたくさんの子どもを助けられるよ!とサヴォングは目を輝かせて言うのだった。レンガやセメントを買って、友達の大工に頼むから、450ドルあれば十分建てられるらしい。
子どもが教育を受けられない、という問題は深刻だけど、お金などですぐに解決できるわけではない。一時的なものでなく、例えば植物の種に水や肥料をやり続け、いずれ大きな花を咲かせるような、継続的な支援が必要だと思う。
サヴォングにこのことを伝えた。
「しなくちゃならないことは多いけど、諦めずに根気良く頑張って欲しい」
握手してサヴォングと僕の小さな、でも大いに充実した話し合いが終わったのは11時、始めてから2時間以上が経過していた。
さすがに疲れた。長い1日だった・・・と振り返る間もなく、僕はのび太のようにすぐに眠りについてしまった。
貧富の差
翌日の朝、サヴォングに頼んでスラ・スランへ再び朝日を見に行くことにした。
昨日見ることが出来なかったのが心残りだ、というのもあったけれど、結局、スラ・スランの元気な子どもたちに再び会いたかったのだ。この日もかなり冷え込んでいて、震えながら朝日を待った。
子どもたちは相変わらず、寝ぼけなまこの観光客を相手に商売をしていた。きっと、明日も明後日も、僕が日本に帰っても変わることのない朝の光景。顔見知りの子どもたちは「また来たの?」と言ってひとしきり騒いだあと、いつものように言うのだった。
「ハガキ、買わない?」
朝日が見えてきた。少し雲に覆われながらも、オレンジの丸が登っていくのがハッキリと見える。
横にいたイギリス人の青年が僕に向かって「2つだね」と話しかけてきた。
空に浮かぶ太陽と、水に沈む太陽。その神秘的な光景に、僕は言葉を失った。
サヴォングも、そして商売に励んでいた子どもたちも一時手を休め、まばゆい光を放ち登っていく太陽をじっと見つめる。
美しい朝日を見ることができて満足していた僕をサヴォングが連れていったのは、瓦礫やレンガがうず高く積まれた場所だった。ほこりが舞い上がる。
「昨日、考えてみたんだ」と彼が取り出した紙に書かれていたのは、セメント、土砂・・・の単語と数字。建物を建てるために必要な材料と、その値段だった。
彼は早くも学校増設計画を実行しようというのだ。全く、彼の行動力には驚くばかりだ。
街をバイクで走っていると、これらの資材を使って家を建てたり、壁を修復したりしている光景をよく見た。きっと乾季で雨が降らないから、作業をするには適した時期なのだろう。新しいものができていく光景を見るのは楽しい。
朝食にと、サヴォングは今通っている学校の近くの店に僕を誘った。日本の学食のような感じで、授業前の高校生たちがたむろしている。
学生たちは白い学生服に身を包み、友達どうしで楽しそうにご飯を食べていた。コーラを飲んだり、よく見るとウォークマンや携帯を持ったりしている生徒もいた。日本とあまり変わりない光景。すなわち、彼らは裕福な家庭の子どもなのだ。
カンボジアで近年問題となっているのが、この貧富の差。親を無くした孤児が食べ物を求めてさまよい歩くその脇を、親の運転するベンツに乗って同じくらいの歳の子どもが学校に向かう。学校に通えて知識を得た子どもたちは将来的に高給料の職に就くことができる。一方で、就学できず何のスキルも持たない子どもは、単純労働などの仕事しかできず、貧しさから脱することができない。悪循環なのだ。
もちろん、朝食を楽しむ学生たちは何も悪くないし、日本では当たり前の光景なのだが、僕は複雑な気持ちにならざるを得なかった。
ノートとペンの価値
昨日話し合って決めた通り、シェムリアップの街から10kmほど離れた村に住む子どもたちのためにペンとノートを持っていくことにした。
ペンは1本8円、ノートは1冊15円。今回はとりあえず50セットを街の文房具屋で買った。
田舎道を走るのは楽しい。人々も家も素朴で、穏やかな表情をしている。特に子どもたちのリアクションは面白い。すれ違うとまるで宇宙人を見るかのように目を丸くしてこちらを凝視してきたり、奇声を上げて追いかけてきたり。
街はどんどん発展しているけれど、カンボジアの人口の9割はこういった農村部に住んでいる。どちらかと言えば、こっちが本当のカンボジアの姿なのだろう。
着いたところは少し大きな家だった。村の有力者らしく、歳のいった、しかし背筋のしゃんとしたおじいさんを中心に、何人かの人々が迎えてくれた。
まもなく、子どもたちが集まってきた。どこから湧き出てきたのか、あっという間に50人近くに膨れ上がった。みんな、よく分からないままに集まっているようだった。そして、彼らが無表情気味なことが、何となく気になった。
彼らにペンとノートを渡していく。ちょっとまだ勉強には早いかな、といった小さな子どもも多かったけど、まあいいや。
しかし彼らはこれを受け取って、果たして何ができるのだろうか。学校に通うことができない子どもたちは、文字を知らない。たぶんペンの持ち方すら分からないだろう。ましてや、教科書など持っているはずがない。たとえもらったとしても、使いようがないのではないか。
彼らに必要なのは、ペンなどではなくまず学校であり、教師なのだ。
確かに彼らには教育が必要だ。自給自足の生活だけでは暮らしていけない。こういった場所に住む子どもたちが教育を受けなかったら、ますます貧富の差は開いてしまうだろうし、いつまでたってもカンボジアという国が発展しない。
政府が教育費にもっと予算を出せばいいのだけど、現状は微々たるもの。教師の給料すら満足に支払われていない。これじゃあ教育が進まないのも当然だ。
“Are you happy?”とサヴォングに聞かれた。「幸せだ」と返事したものの、何だか複雑な気持ちだった。
やわらかな昼休み
「貧しい」と言われる農村地域について、もっと知りたい。彼らの生活にもっと触れてみたい。サヴォングにそう言うと、運のいいことに近くに知り合いの家があるという。頼み込んで、連れて行ってもらうことにした。
しばらくバイクを走らせて着いた場所は、高床式の家々が並ぶ村のある一軒だった。いかにも熱帯です!と言わんばかりの、たくさんのヤシの木。
なんだなんだと家から出てきたのは6人の家族。若い夫婦と、4人の小さな子どもたちは、突然の来訪者に驚きながらも、笑顔で迎えてくれた。
彼ら一家は貧しいため、一時期サヴォングの両親が里親として、1人の男の子を預かっていたらしい。でも今は、家族6人で仲良く暮らしている。貧しくても、家族の元の方がもちろん幸せだ。
訪問したのはちょうど正午くらいだった。
カンボジアの日中は日差しがギラギラと襲い掛かかってくるため、人々は家の中で休む。学校も仕事も、正午から午後2時の間は昼休みとなる。どんな家にも、どんな店にもあらゆる場所にハンモックがあり、この時間は大人も子どもも昼寝をするのが普通だ。動いているのは空に浮かぶ雲と、遺跡めぐりに必死な観光客くらいのものだ。僕にしても、前の旅では昼間だろうと何だろうと構わずうろつき回っていた。
この日も朝の寒さからは考えられないくらいに暑くなった。乾季なので湿気が全くなく、それほど嫌な感じではない。
兄弟が2人、何をするわけでもなくハンモックにいつまでも揺られていた。
昼食をごちそうになることにした。
ご主人が「これくらいしかできなくて・・・」と運んできたのは、小魚のフライ、野菜のスープ、そしてご飯。彼らにとっては最大限のもてなしなのだろう、確かに豪勢とはほど遠いのかもしれないが、僕は嬉しかった。それに、お世辞抜きで美味しかった。
彼ら夫婦は、英語はおろか母国語のクメール語ですら満足に話すことができない。そのため賃金を得られる仕事が少なく、自給自足に近い生活を強いられている。わずかなお金は子どもたちの学費に使うのだという。
詳しくは聞かなかったのだが、夫婦の年齢は30歳くらいに見えた。彼らの生まれた頃はちょうど、ポル・ポト政権がカンボジア全土を震撼させた時期。ポル・ポトを始めとする独裁者たちは国民から文字、習慣、宗教、伝統、全てを奪った。その結果、この夫婦のように文字を知らず、話すことすらままならないような人々が今でもたくさんいる。彼らもまた、長期に続いた内戦の被害者なのだ。
家は簡素だが通気性がよく、とても心地よかった。
あまりに気持ちよくて、家族に混じって少し昼寝をさせてもらった。
「貧しい」ことに間違いはなかった。
でも僕はスラ・スランで出会った女の子の家族と同様に、この家族に対しても「豊かだな」と思った。
3つの言語
サヴォング・スクールに戻ると、ちょうど日本語の授業が始まるところだった。
チーソンナンは日本語を教えることに苦戦しているようだ。彼の持っている日本語の教科書をのぞかせてもらった。
あいさつや基本的な会話表現などは普通だけど、文法がやっぱり、外国人にとっては難しいのだろう。「て・の・に・は」が分からない、とチーソンナンはぼやいていた。生徒たちはチーソンナンがホワイトボードに示したこれらの言葉をノートに必死に書きこんでいるけれど、果たして意味が分かっているのやら。
最大の問題は、彼らが日本語の教科書を持っていない、ということだ。日本語の教科書は特に高いのだそうだ。それにしても、ノートに書いたひらがなだけでは限界がある。
「文法よりも会話のことばから覚えていけばいいと思うよ」と、僕はいくつかのあいさつ表現を教えた。
継続的な支援が必要なのだ。金銭的な面だけでなく。援助をしようと足を踏み入れたが、これは難しい問題だ、と思う。
生徒たちは本当に熱心で、そして楽しそうに勉強していた。
カンボジアの学校ではどんな風に授業をしているのだろうか。同じようにみんな楽しそうなのか、それとも厳しいのか。ちょっと、授業を見学してみたくなった。
彼らは日本人である僕と話すのが最初は少し恥ずかしかったみたいだけど、打ち解けてからは僕を練習台として、嵐のように話しかけてきた。
何歳なのか、何をしているのか、家族は何人か、好きな食べ物は、カンボジアは好きか、アンコールワットにはもう行ったのか・・・同じような質問が四方八方から浴びせられた。日本語があまり分からない生徒はチーソンナンに僕の答えをクメール語に通訳してもらって、しきりに感心している。日本語よりも英語の方が得意、という15歳くらいの生徒が流暢な英語で話しかけてくる。教室は3ヶ国語が飛び交う戦場となってしまった。
僕もおかえしに、いくつかカンボジア語を教えてもらった。残念ながら、もう忘れてしまったけれど。
腹痛の襲来
昼間からもしや・・・と恐れていたものが的中した。
食あたりだ。
腹が昼過ぎから少しずつ痛くなってきて、日本語の授業が終わった8時頃にどうしようもなく我慢できないくらいに痛くなった。腹の中で何かが暴れまわっているようだ。ついでとばかりに頭痛も襲ってくる。
原因ははっきりしていた。昼に農村でごちそうになったものにあたってしまったのだろう。生水は避けたけれど、果物を食べたのがどうやらまずかったようだ。
後悔はしなかった。彼らのもてなしは本当に嬉しかったし、たとえあらかじめヤバイと分かっていても僕は食べただろう。自分の体が弱いのがいけないのだ。
・・・そんなことを思いつつ、正露丸を必死で飲み込み、せっかく作ってくれた晩ごはんも断って、床についた。残念なのは、サヴォングやチーソンナンたちと話すことができなかったことだ。
翌日の夕方には飛行機に乗らなくてはならないのに・・・最後の晩を彼らと過ごせなかったこと、それだけが悔しくてならなかった。
満身創痍のビリヤード
最終日、起きたのは9時。ざっと10時間以上も寝ていたことになる。腹痛はやわらいだ気がするが、食欲が全くない。サヴォングの妹やお父さんが心配してご飯を食べろと言ってくれるのだが、とても食べれそうもない。やっとのことで切ってくれたリンゴを一切れ、口にいれた。
この日は僕の23歳の誕生日。誕生日をカンボジアで迎えるなんていい記念になると思っていたが、それに腹痛がついてくるとは思わなかった。
サヴォングは心配そうに、だが半ば強引に、のた打ち回っている僕をビリヤードに誘った。誕生日だし楽しもうぜ、というわけだ。体は限りなくだるかったし、正直動きたくはなかった。でもカンボジアに滞在できるのも今日まで。何とかなるだろう、と重い腰を上げた。
ビリヤード場は日本のそれとほぼ同じだった。薄暗く、控えめに音楽が鳴り響いているのも、得点を記入するホワイトボードもそっくりだ。ただひとつ、決定的に違うことがあった。各台にひとり、若い女の人がついている。彼女たちはビリヤードの玉をセットしたりゲームの得点を数えたりする係で、とてつもなくやるせない表情をしていた。そりゃ眠たいだろうしなあ。
金曜日の午前だというのに、20ほどあるビリヤード台はほぼ埋まっていた。それも圧倒的に若い男が多い。仕事はないのだろうか。学校にしてもそうだけど、カンボジアの活動時間帯がイマイチ把握できない。
サヴォングのビリヤードの腕は大したものだった。対照的に僕はかなり最悪で、結局1ゲームも勝つことはできなかった。腹痛と頭痛だから仕方ない、と言い訳をしつつ、ビリヤード場をあとにした。体調はますます悪化。
誕生日パーティー
午後になっても、相変わらず何も食べる気力はない。子どもたちはそんな僕の状況にはお構いなしに、写真を撮れ、肩車しろ、自転車に乗ってどっか行こう、と騒ぐ。不思議なもので、相手をしていると体調がマシになった。
そんな様子を見ていたサヴォングが、ふいに「ケーキを買いに行こう!」と僕を誘った。
ケーキは街のパン屋に売っていた。カンボジアにはそういう類の店はないと思っていたから驚いた。店の中にはカンボジア人の姿はなく、そのかわりアメリカ人らしいオッサンが、嬉しそうにクッキーを選んでいた。ケーキは10$で、カンボジアの物価からするとかなり高い。
しかしサヴォングは僕からは決して金を受け取ろうとしなかった。そういえば僕は、彼の家に泊まってからというもの、ほとんどお金を出していない。サヴォングは常に僕をもてなそう、カンボジアでの滞在を楽しんでもらおうと気を使ってくれていた。それが嬉しかった。
家に戻ってまもなく、パーティーが始まった。
サヴォングが呼びかけてくれたのか、たくさん人が集まってきた。
帽子をかぶって、ケーキを並べて記念撮影。こんな経験は小学生以来。カンボジア版「ハッピーバースデー」を合唱してもらって、ケーキにささった23本のろうそくを吹き消した。
そのあとは大混乱。もうこうなると「主役」なんてそっちのけ。ケーキをぶつけ合うなんて、どこかのバラエティー番組の企画みたいなことをしたりもした。
それでは また。
あっという間に、空港に行く時間がやって来た。
残念だった。もっとサヴォング・スクールの生徒たちと話をしたかったし、もっとカンボジアの色々な面を見て、感じたかった。
でも、寂しいという気持ちは意外なほどになかった。
いつでもメールを使ったり、手紙を送ったりして連絡はとれる。
それに、「また会える」ことが分かっているからだった。ウルルン滞在記のように涙の別れとはならず、ずっと笑顔だった。
サヴォングは、自分の結婚式に僕を必ず呼ぶ、と話した。そして、ニュージーランドにいるダンカンに、いつか一緒に会いに行くことを約束した。
今度カンボジアを訪れたとき、サヴォング・スクールや彼の小さな兄弟がどうなっているのだろうか、想像するだけで楽しくなってくる。
そのとき、カンボジアの子どもたちはみんな、学べているだろうか。
空港の職員に、「また会える日を」と話しかけられた。
「リア ハウイ!」
僕はクメール語で「それでは、また。」と答えた。

TOP
About
support
Link